テロの波:パレスチナ人臨床心理士の分析 2015.12.9

<エルサレム市内の様子>

イスラエルで9月末から、続いているテロの波は、今も続いている。しかし、ここしばらくは、ほとんどがグッシュ・エチオンやヘブロンなどの西岸地区で、エルサレム市内では発生していない。エルサレムでは、6日から、平和にハヌカの祭りが始まっている。

しかし、そうこうしているうちに、世界では、パリに続いてアメリカで14人、イギリスでもテロが発生した。どれも国内からの予測不能なテロである。こうした様子をみていると、やはり、イスラエルは世界の縮図であると感じさせられている。

もちろん、今、世界で起こっていることと、イスラエルで起こっていることに関連性はなく、比べることも当然、できないのだが、パターンに類似性があるように思う。

イスラエルは世界より一歩先に、9月末から国内にいる者によるテロにみまわれはじめた。3ヶ月が経とうとしている今も、抜本的な解決を見いだせず、負傷するイスラエル人、テロリスト射殺、その復讐、逮捕、射殺・・という悪循環が続いている。

スケールは違うが、世界の大国も今、組織によらず、個々人の考えで動く、いつどこから発生するか予想不可能という、イスラエルと同じパターンの国内からのテロに悩まされている。これに対処することはほぼ不可能である。

イスラエルでのテロについて言えば、大半が、ティーンエイジャーによるテロである。極端なイスラム思想はなく、ランドセルをしょったような状態のまだ子供たちによる深刻な無差別テロ。これはまさに予測不能であり、治安部隊にしても、ナイフを掲げている中学生を射殺しなければならない事態である。

12月8日現在、イスラエルの拘置所にいるパレスチナ人のティーンエイジャー(18才以下)は120%増えて、420人。テロ行為で治安部隊に射殺されたパレスチナ人は、100人以上に上っている。

これらの子供たちは、自分が死ぬか、大けがをすることを承知の上でテロ行為の及んでいる。いわば自殺行為である。彼らの心の中にいったい何があるのか。

パレスチナ人臨床心理士として研究を続けるかたわら、東エルサレムにクリニックを開いて、パレスチナ人の子供たちや親たちに接しているシャフィック・マサルハ博士が、心理学者としての科学的視点で解説した。

*マサルハ博士は、第一インティファーダからパレスチナの子供たちの夢の解析を行い、この分野の専門家として、イスラエルの大学だけでなくアメリカの大学からも招聘されている。

<パレスチナの子供たちの心>

1)権威の不在

マサルハ博士は、まずは、パレスチナ人の子供たちには、学校や教師、両親、さらには国家といった普通なら上に立って、子供たちを守り、導くはずの権威が、不在である点を指摘した。

思春期の子供たちにとって、周囲から保護されている、安全であるという環境はなくてはならない要素である。

しかし、パレスチナ人の子供たちにとって、イスラエル政府はもちろん、パレスチナ自治政府ですら、彼らを守る組織として信頼できる要素ではない。親たちもそれについては無言で無力である。ここから生まれるのは、将来への絶望感である。

また、国があってあたりまえの私たち日本人は忘れているところであるが、祖国がなく、隣国の下におかれているという状況では、思春期の子供たちに、健全な自尊心は育たない。しかもそれが、何年たってもなにも変わらない。そこから生まれるのは。助け手はどこにもいない、出口はどこにもないという拒絶感である。

最近では、テロの波から、10代の子供たちが。登校途上の検問所や通りで、イスラエル兵に止められ、服を脱がされ、人前で、ボディチェックされる。こうした屈辱を受けた思春期の少年たちの頭の中が、ひたすらイスラエルへの復讐一色になることは容易に理解できるところである。

ところで、日本では、最近の若者たちは、ほとんど何も考えておらず、ただ”今”のことしか考えていないと聞く。パレスチナ人の若者も似ている点があるとみられる。

パレスチナ人の学校では、イスラエルの歴史を学ばない。エルサレムがイスラエル領に入った六日戦争も知らず、最近の歴史もほとんど知らないというのが現状だと博士は語る。

ではなぜイスラエルをそこまで憎むのかといえば、それが、パレスチナ人の、1948年以来、今も続く「言語」だからである。つまりアイデンティティということであり、社会全体の流れ。日本風にいうならば、「空気」である。

その空気は、イスラム諸団体だけでなく、パレスチナ自治政府までが、ソーシャルメディアなどを通じて、扇動し続けているため、何年たってもなくならない。

神殿の丘が、暴動の引き金になるが、それは、イスラムにとって大事であるからではなく、パレスチナ人の象徴であるからである。象徴がイスラエルによって脅かされる。だから戦う。これは昔からある「空気」である。それは、何十年たっても変わっていないのである。

日本の空気から考えても想像できるかと思うが、中にいる者はそれが空気であることを知らず、そこから出て来るには相当に変わった考えと勇気が必要になる。

興味深い事に、マサルハ博士が、「マス・サイコロジー(集団心理)」ということばで説明したところによると、集団で投石をしているパレスチナ人の中には、体そのものが集団と一体になっており、自分が負傷していることに気がつかないまま、群衆と一体になって投石し続ける場合があるという。心とともに体も集団と一体になりうるということである。

将来への絶望、世界から見捨てられたという拒絶感、自分の存在価値のなさ。この3つに屈辱感が加わり、社会全体に流れる空気に乗せられて、子供たちがテロ、すなわち自殺行為に走るのである。

これは日々の生活の中から出て来たものであり、イスラムの殉教などではないとマサルハ博士は主張する。

では責任はどこにあるのか。それはパレスチナ、イスラエル双方の指導者にある、子供たちは犠牲者だとマサルハ博士は語る。

2)イスラエルがパレスチナ人テロリストの家を破壊することについて

イスラエルは、テロの抑制になると考え、テロ行為をした者の家を次々に破壊している。これはテロを抑制する効果になるのであろうか。

最近、イスラエル軍は、昨年、路面電車駅で待っている人々の群れに車で突っ込んで、小さな幼児を死にいたらせたテロリストの家を破壊した。

パレスチナ人のSさんによると、この家を破壊する前に、家族はすでに、新しい家に引っ越していた。新しい家は、ご近所が献金し、この家族のために準備したという。写真を見せてくれたが、なかなかすばらしい家だった。おそらく前の家よりも立派である。

時々、パレスチナの子供たちが、家族を助けるためにあえて、こうした行為にでるといった分析もあるが、マサルハ博士は、子供たちは、通常、そこまで考えていないとと言った。

テロによって新しい家が与えられるということで、さらなるテロを促進してしまうのではないかとも思われるが、ムサルハ博士は笑って次のように言った。

よりよい家に引っ越しをすることは、西欧的な考えでは喜ばしいことかもしれない。しかし、アラブ文化では、いくら家が古く汚くても、昔から住んでいた家への執着が強く、そこから出ることは喜びにはならない。家が破壊された補償として新しい家をもらっても、得した感にはならないのだという。

博士は、イスラエルは、テロリストの家族の家を破壊することで、次のテロの抑止力になると考えているが、子供たちは、感情的に動いており、抑止力になるとは思えないと語った。

ただ、家族には抑止力になる場合があるようでもある。数週間前、親が息子を犯行前にイスラエルに通報したケースがあった。しかし、これはまれであろう。

3)親の心

子供がこうした自殺行為に向う状況について、普通なら親の監督責任が問われるところである。しかし、ニュースでは、「殉教」だと喜ぶ親の姿が報じられたりする。ムサルハ博士は、そうした姿がテロ行為の後のみであることに注目してほしいという。

子供が死んで、殉教したと喜び、褒める姿は、心理学的には、子供を失った親が、その事実の整理をつけるための一つの防衛反応だと解説する。

実際には、テロ行為に及びそうな子供たちを、親たちはコントロールできなくなっており、子供たちのテロ行為によって家族が破壊されることを恐れているという。

よく考えれば、イギリスでも、フランスでも優等生がいきなり、シリアに行ってしまうケースが相次いでいる。思えば、親が子供を十分管理できていたのは、どの国でももう昔の話になっているのかもしれない。

子供を失った親、その子の行為によって家を破壊された親たちがその後どうしているのかも懸念されるところである。

*注意
ムサルハ博士が日常に対面するパレスチナ人の子供たちや親たちは、主に、社会から落ちこぼれた人々である。同じ東エルサレムに在住していても、ヘブライ大学に通い、ビジネスをたちあげ、普通の生活をしているパレスチナ人もいる。

ユダヤ人と同様、パレスチナ人も多様化がすすんでおり、ひとくくりには語れないということもご承知いただければと思う。

<石のひとりごと>

イスラエル人の子供たちは思春期になると、イスラエル軍に入る。親にとっても子にとってもこれは大きな試練である。

しかし、祖国の旗のついた軍服を着、本物の銃を国からまかされるということが、思春期の若者、特に少年たちにとっては、試練であると同時に、よい成長の機会にもなっている。

自分の所属する場所を確信し、自分が国の大事な一部であるという健全なアイデンティティにつながるからである。また、子供たちには、家から離れ、生死を目の当たりにする中で、家族に感謝し、家族を大切にする意識が育まれるという。

これに比べて、パレスチナ人の少年たちには国籍すらない。自分の所属も居場所もない。絶望、拒絶、価値のない自分という思いでいっぱいになっている。

福音は、人に希望を与え、神に愛され、受け入れられている自分、自分は価値ある存在であると自覚させるものである。まさに、これこそがそのまま解決の道ではないか。パレスチナの子供たちに今、福音が届くようにとの祈りが必要である。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。

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