エルサレム5774年・新年 2013.9.6

シリア危機で世界は騒然としているが、4日夕刻より、エルサレムでは例年のように平和なユダヤ暦新年5774年を迎えている。危機感を持っている人はだれもいない様子である。

新年は6日夕刻までだが、7日が安息日であるため、イスラエルでは実質3連休。バスも電車も3日間止まる。

新年祭に入る4日には、エルサレムの町ではすでに祝い込みに入っている様子で、閉まっている店が多かった。郵便局(本局)にいたっては閉館の午後12時の5分前にはすでに閉まってしまって帰宅。

市場のマハネイ・ヤフダではまだかけこみの買い物をしている人も大勢あり、りんご、はちみつ、ハニーケーキ、ざくろ、新鮮な魚といった新年らしい食べ物がならんでいた。

あちこちで「シャナ・トバ・ウ・マトカ」(新年がスイートでよい年でありますように)ということばが飛び交っていた。

嘆きの壁では、4日日没後、新年をつげ知らせるショーファーが吹き鳴らされた。嘆きの壁に行かない人々は、近隣のシナゴーグで祈りが捧げた後、家庭で新年の特別な食卓を祝った。(写真:新年を迎えている家庭のあかり・たわわのざくろ)

<新年の統計:総人口800万を超える>

毎年、新年には統計が行われる。イスラエルの総人口は808万1000人とついに800万を超えた。うちユダヤ人606万6000人(75.1%)、アラブ人167万人(20.7%)、34万5000人(4.3%)がアラブ人以外のクリスチャンなど別の宗教者。

新生児は16万3000人。名前は、女の子ではノアちゃんが人気。男の子ではイタイ、ダニエルと続く。新移民は、17484人。いったん移住した後出ていったユダヤ人で、帰ってきた人を入れると22988人。

昨年に比べると、14万2000人(1.8%)増えた。*亡くなった人をさしひいている。

<新年・さばきの日が近づいた合図・レビ記16:24>

聖書によると、新年は、第7の月の1日。ユダヤ教では、これは天地創造の6日めにあたるとされる。つまり、最初の人、アダムが生まれた(創造された)日である。場所はエルサレムとされる。

このアダムが神のいいつけを守らずに禁断の実を食べて、罪、混乱が世に入った。そのため、神は、アブラハムを召し出された。アブラハムは、主の命令に従って、疑問をはさまず、息子イサクをささげようとした(創世記22章)。

この従順が認められ、主みずから、イサクにかわって罪を贖い、いけにえとなる子羊をアブラハムに与えられた。これによりイサクは死から免れたのである。その子孫がユダヤ民族である。

したがってこのできごとは、ユダヤ民族の原点、彼らと神との契約を現している。この場所もまたエルサレムである。

<らっぱの意味>

ではらっぱをふくのはどういう意味か。これは、ユダヤ民族に対し、「神こそがすべてを支配しておられるお方。新年をよいものにされるかどうかは、このお方しだい。神との契約を守っているか。神との関係は大丈夫か吟味せよ。」という合図である。

実際、新年の10日後、第7の月の10日目(今年は9月13日)には大贖罪日(ヨム・キプール)が来る。大贖罪日にはメシアがエルサレムに来て、最後のさばき、審判を行うとされる。

贖罪の日は、この日そのものが、悔い改めて主に立ち返る日・・・ではない。”この日までに”主に立ち返って悔い改め、神との関係が正しい者は、この日、さばきを免れる。終えていない者は、この日、裁かれて滅びる。

新年祭に吹き鳴らされるラッパは、贖罪の日が近いという警告の合図なのである。これに備え、ユダヤ教には、新年祭中、水(噴水などもOK)に向かって自分の罪を言い表し、悔い改めて神に立ち返るという習慣がある。

またユダヤ人たちは、新年祭から「ハティマ・トバ」とあいさつをかわし、「主の書物にあなたの名が良きことともに記されますように。」と言い合う。

つまり、新年祭りから、大贖罪日までの10日間は、これまでの神との関係とともに周囲の人々との関係も振り返り、仲直りすべき人とは仲直りするなど、神と人の前に悔い改めのチャンスの時ということである。

*新約聖書との関係

新約聖書では、イサクにかわって死ぬことになる子羊は、イエスの型を示していると考えられている。人類全体の、しかも時間を超えた罪をあがなえるのは人間のよい行いなどではまにあわない。神ご自身だけである。

そこで神ご自身がイエスとなって地上に来られ、罪の結果である永遠の死の罰を、人に変わって受け、そこからよみがえって完全な解決の道をつくった。人は自分の罪と無力を認め、これまでの歩みを悔い改め、イエスの贖いを信じ、受け入れることが救いへの道だと教える。

「らっぱを吹き鳴らす日」は、新約聖書(第一テサロニケ4:16,17)によると、この日、らっぱの響きを合図に、イエスの贖いを受け取り、罪赦されている者は、先に天に上げられるとされる。その後に、メシアとしてのイエスが、地上で最後のさばきのために、再臨するのである。

らっぱの音とともに天に上げられなかった人々にとっては、メシアが来るまでのわずかな期間が、最後に残された悔い改めのチャンスということになる。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。

コメントを残す

*