エルサレムの神殿の丘には、紀元前1000年からバビロンに破壊される紀元前586年までソロモン王が建てた第一神殿があった。
バビロンでの補修を経て、紀元前515年から紀元後70年までは、ヘロデ王が建てた第二神殿と、ユダヤ人の神殿が存在していた。イエス・キリストが出入りしていたのは、この第二神殿である。
しかし、その後、神殿とともにイスラエルは消滅した。
その後700年代にイスラム教がここに黄金のドームとアルアクサモスクをたてて、それから1000年以上は、主にイスラムの聖地として認識されることとなった。
その後、1967年の六日戦争で、イスラエルが支配権をとったものの、長きにわたって、イスラムの聖地とされてきた経過から、イスラエルは、100%の支配権を宣言しない道を選んだ。
代わりに、治安維持はイスラエル治安部隊が担当するが、管理者はヨルダンであり、主導権はイスラムの手にあるという形での現状維持が続けられている。
このため、ユダヤ人が神殿の丘に入ることは非常に限られており、中では、目に見える形で祈ることは禁じられている。キリスト教徒も同様で、聖書の持ち込みは禁止。祈ることも許されていない。
イスラム教徒は、いつでも入場できる中、それ以外の人々は、定められた時間に、入場が許されているのみである。
ただ、治安上、問題ある時は、イスラエル軍が、イスラム教徒の入場も制限する時もある。非常に微妙な「現状維持」に置かれている場所である。
しかし、強硬右派ユダヤ教徒たちは、過越などユダヤ教の例祭の時には神殿の丘に入って、祈ろうとして、時にパレスチナ人と衝突する緊張が発生してきたのである。
今のネタニヤフ政権は、明らかに右派政権で、連立政権内には、極右政党と宗教シオニスト政党も含まれていることから、権威をふるってこうした動きをする傾向にある。
13日(土)に過越が始まってから、神殿の丘へ入場したユダヤ人は、3076人に上っていた。
また、過越の中日にあたる15日(火)、嘆きの壁で数万人が、祈りを捧げた日、警察(極右のベン・グヴィル氏管轄下)は、強硬派ユダヤ人180人に、神殿の丘へ入る許可を出した。これまでは多くても30人であったことかすると6倍の数である。
הר הבית לב האומה היהודית! pic.twitter.com/1CjVFoNn0s
— ברל'ה קרומבי🇮🇱 (@berale_crombie) April 15, 2025
この人々は、神殿の丘で、明らかに集まっての祈りを捧げていた。幸い、パレスチナ人との衝突にはならなかった。ベン・グヴィル氏は、「この30年見られなかった光景を今見ている。大きな転換だ」と語っている。
ברכת כהנים במוסף של חג על הר הבית pic.twitter.com/7bfu1sxO6d
— ינון מגל (@YinonMagal) April 15, 2025
報道によると、神殿があった時代のように、犠牲の捧げ物にしようと、子羊を持ち込もうとした者がおり、入口で、イスラエルの警察に逮捕されたとのこと。しかし、すでに釈放されている。
石のひとりごと
いつ、どういう経過になるかはわからないが、エルサレムには第三の神殿が建つと聖書は預言している。その準備が着々と進んでいる様子である。