28日、エルサレムは、第47回目の統一記念日を迎えた。
47年前の1967年、エルサレムは西側はイスラエル、東側(神殿の丘と旧市街全体、オリーブ山を含む)はヨルダンと、二つに分割された町だった。それが統一された町になったのは1967年6月、第三次中東戦争(六日戦争)の時である。
当時イスラエルは、周辺諸国からのの挑発と脅威から防衛目的で、エジプト、シリア、ヨルダンへの先制攻撃を決行。それを機に、シリア軍、ヨルダン軍がいっせいにイスラエルに攻め込んできた。
しかし、イスラエル軍はそのすべての前線で、1日2日という短期決戦ですべて勝利を納めた。エルサレムの神殿の丘にもあっというまにイスラエル軍が入り、エルサレムが統一されて、戦争はたった六日で終結した。これが六日戦争である。
この戦争では、1948年の独立戦争でどうしても奪回できなかった場所もすべてイスラエルが奪回することになった。
ユダヤ人が、堂々とエルサレムに入るのは、70年AD, 2000年前にローマ軍によって神殿が破壊され、町から追放されて以来。もっというなら、エルサレムをイスラエルが主権を持って治めるのは、ダビデ王以来のことである。
イスラエル人にとって、これは、相当な喜びであり、かつ神の奇跡を思わせる出来事にもなっている。ネタニヤフ首相は、「エルサレムは国の心。再び分割することはない。」と語った。
<国をあげての次世代育成>
イスラエルは人口の28%が、14才以下の子供である。イスラエルは国を挙げて、この次世代の育成に力を入れている。
前夜27日には、全国のティーンエイジャー15000人がエルサレムに集まり、ネタニヤフ首相や、パイロン教育相からのメッセージを受けた。夜には旧市街近くのスタジアムで7000人が集会を行った。
28日には、毎年、国会付近から嘆きの壁までを人々が旗を持ってダンスしながら歩いていくのだが、エルサレムの町は、数週間前の独立記念日と同様に人、人、人の大海原。
しかも、どこをむいてもほぼ100%ティーンエイジャー。その中に紛れ込むように幼児を肩車する若いお父さんの家族連れがいる。中には80歳代くらいの高齢者たちも、イスラエルの旗を降りながら、高いところなどから若者たちをながめている。
独立記念日と違って、シオニスト団体関係の若者ばかりであるため、男子と女子は分かれてのお祝いである。酒もタバコもないのに、どの子もかなりのハイパーで全身で飛び回って、叫び回って踊っている。
鼓膜が破れそうなほどにやかましいのは同じだが、男女ごちゃまぜで、ビールを飲みながら少々いかがわしい感じのダンスで”ストリートディスコ”になっていた独立記念日と違って、服装や使っている音楽や、雰囲気が断然健全だった。
やはり、ユダヤ人にとって、エルサレムがイスラエルに戻ったということは、建国以上に大きな意味があるのだと感じた。しかし、統計を見ると、実際にエルサレムに住むということになると話は別という結果が出ている。
<統計から見るエルサレムの課題>
イスラエル中央統計局によると、エルサレムの人口は、現時点で81万5000人。このうち、ユダヤ人は約50万人。アラブ人は、30万1100人である。エルサレム人口の37%、つまり、3人に1人はアラブ人なのである。
また正統派ユダヤ教徒が増えているが、その分、世俗派ユダヤ人は、どんどんエルサレムから出て行く傾向にある。ユダヤ人人口のうち、51,3%、つまり半数以上が正統派となっている。
正統派が半数以上となり、37%はアラブ人と、税金を納めない人口がどんどん増え、社会福祉やチャリティで生きている人が非常に多いというのがエルサレムなのである。
しかし、現在、市長を務めるバルカット市長は、元敏腕ビジネスマンとして、エルサレムで様々なイベントや事業を展開して、国内観光を活性化させ、町を明るくするのに奮闘しているようである。
<現状から見るエルサレムの課題>
イスラエルはエルサレムがたましいであり、分割されることはないと言っているが、実際には、エルサレムの西と東は二つの別の町のようであり、見た目には統一とは言いがたいというのが現状である。
つまり、東側にはユダヤ人はほとんど住んでおらず、アラブ人ばかりが住む中東バグダッドと言った感じ。一方、西側に住んでいるのはほとんどがユダヤ人で、文化は欧米ヨーロッパなのである。
東エルサレムのアラブ人もれっきとしたエルサレム住民だが、エルサレム統一記念日は、興味ないか、関係なしか、一部は当然、イスラエルに敵対している。
エルサレム統一記念日の朝、第三神殿を建てる事をめざすユダヤ人の若者のグループが神殿の丘に上がり、アラブ人と衝突。負傷者は出ていないが、以後、この日、神殿の丘は、ユダヤ人は立ち入り禁止となった。
こうして説明していただけると、エルサレムの複雑な状況が良くわかります。有難うございました。