西岸地区のハマスは、「これはジハード(聖戦)なのであり、勝利か、そうでないなら殉教だ」と言った。
つまり、勝利するためには、残虐な人殺しをすることも正義ととらえる。逆に勝利できない場合は、命を捨てて攻撃する。そうして、死ぬということ自体が勝利だと考える。
究極の勝ち負けの理論である。また自分を含め、人の命を自分の支配下に置いていると信じているということでもある。
ユダヤ人の考え方は、正反対と言ってもいいほど、これと全く違っている。
アメリカのユダヤ教のラビ・エリック・リーダーマンが、「ユダヤ教は究極のスポーツ」というタイトルのエッセイを書いていた。
aish.com/judaism-the-ultimate-sport/?src=ac
それによると、ユダヤ教は、勝ち負けではないと言っている。ユダヤ教にとって大事なのは、個人がまずそこにいる、存在し、成長し、昨日よりも良くなっていることだというのである。
興味深いことに、ラビ・リーダーマンは、ユダヤ教が究極のスポーツだという中で、練習することについて、勝つという目的があって練習するのではなく、「練習が目的を生む」、練習することを通して目的が見えてくると言っている。
その練習が何かだが、ユダヤ教では、決められたことを実践することが求められる。さまざまな律法を守ることが求められる。
たとえば安息日には、シナゴーグに来るということ。まず、そこに来る、現れる、存在するということから始まると言っている。キッパをかぶり、タリートをかぶる。ヨム・キプールに断食するなどと続いていく。これらが練習にあたるというのである。
それをすることに感動があろうがなかろうが、それを行う、実践する。感動する日もあるだろう。しかし退屈でしかない日もある。それでいいのである。
ラビ・リーダーマンは、ユダヤ教の美しさは、完璧を期待されていないことだと言っている。何かを完成することや、何かを達成することではなく、そこにいること、そうして、昨日より成長していくことだという。
ユダヤ教というと、律法主義だと思われがちだが、行いで自分の救いを達成しようというような考えではないということである。そこにいて、つまり創造主の前にいて、浮き沈みしながらも、成長しながら前に進む。
その中で、それぞれに与えられている、社会における使命が見えてくるというのである。これが、目的のための練習ではなく、練習によって目的がみえるということなのである。
練習なので、過去のこと、失敗にも成功にとらわれず、常に、今を基準にして前に進む。ゴールは、主が決める、この世の命の終わりは主が決めるということである。つまり、栄誉は自分で決めるものではないということである。
ユダヤ教では、この考えに基づいているのか、大きいもの、成功しているものは、確かにすばらしいが、人間の目には、そうでなかったとしても、価値がないとは考えていない。大きい者も、小さい者も、大人も子供も、すべてが用いられて、世界が回っていると考えている。
自分も他者も、障害のある人も、病気、高齢者であっても、人一人の命は最大限に考えている。この考えの中に、勝ち負けは問題ではないのである。だからユダヤ人どうし、違いへの思いは家族のように自分ごとになる。
究極のところ、主権は神である主にあるということを、ユダヤ人たちは、長年の苦難の中でたたきこまれているのだと思う。それは時に、理解不能な不条理にみまわれる中でも、ということである。
今、ビバス一家に及んだあまりにも悲惨な結果をどうとらえるのか。なぜ神はこの美しい母子たちを助けなかったのか。祈りは聞かれなかったのか。耐えきれない不条理である。
しかし、ユダヤ人たちは、それでも、この神の前に立ち続け、過去に目をむけることなく、前に向かって進む。「練習」を続けていくのである。
これは、新約聖書でパウロが次のように言っていることと合致すると思う。
兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
・・・それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。(ピリピ3:13-16)