イスラエルはホリデー:隣のシリアは停戦崩壊寸前で地獄 2016.4.29

とりあえずは平和に過ぎ越しを楽しんでいるイスラエルだが、その真横(斜め上)にあたる隣国シリアでは、最後の望みとも言われた停戦が崩壊寸前となり、ますます地獄の沙汰となってきた。

28日、停戦中のはずが、シリア最大の都市アレッポが、シリア政府軍によるとみられる空爆を受け、国境なき医師団の病院が破壊された。

病院で、少なくとも27人が死亡。それ以外への爆撃で30人が死亡したとみられる。アレッポだけでなく、ダマスカス近郊などでも再び空爆や戦闘が再燃している。

www.bbc.com/news/world-middle-east-36162474

国連のミスチュラ・シリア問題特使は、「シリアでは、この48時間の間(28,29日)、24分に1人が死亡する事態となっている。問題は非常に深刻である。」と報告した。しかし、このまま放っておくわけにもいかず、あきらめずに停戦への試みを続けると言っている。

ミスチュラ特使は、5年間の内戦による死者は40万人との可能性もあり、とこれまでの予想(25万人)をはるかに上回るとの見方も示唆した。

BBCによると、シリアには今なお1800万人の一般市民がいる(かつての人口約2450万人)。そのうち600万人以上は、国内難民となって死に直面していると懸念されている。

住民の一人は、虐殺を続けるアサド大統領の政府軍と、ロシア軍の空爆に対して世界はなにもしていないと叫んでいる。

アメリカのオバマ大統領は、地上軍を本格的に送り込むことはできないとしながらも、先週、ISISと戦う地元反政府勢力(過激でなく、欧米に認められている勢力)を支援する軍事関係者250人をあらたにシリアへ派遣すると発表した。

www.bbc.com/news/world-middle-east-36162701

<ねばるアサド大統領>

イギリスのメディアによると、シリア問題の解決案として、アメリカとロシアは、アサド大統領がいったん第三国に出ることで同意したもようである。新しい政府を立ち上げるにあたり、アサド大統領がそこにおさまるとは思えないからである。

ISIS撃退のためにも、シリアの内戦をいったんおさめないと、事はややこしすぎるのである。

www.jpost.com/Middle-East/Report-US-Russia-come-to-agreement-on-Assads-departure-from-presidency-449829

レバノンのニュースによると、イランも、アサド大統領にイランへ亡命し、そこからシリアの軍事作戦を指導するよう提案したという。しかし、アサド大統領はこれを拒否したと伝えられている。

www.i24news.tv/en/news/international/middle-east/110770-160423-iran-offered-syrian-president-bashar-al-assad-and-his-family-asylum-report

<石のひとりごと:ゴシェンとエジプト>   

シリアは地獄の沙汰となっているが、そのシリアとイスラエルは隣り合っている。今週、50万人がホリデーを楽しんだガリラヤ湖から、地獄の沙汰のシリア国境までは、車で1時間もかからない。ダマスカスまで行っても3時間はかからないだろう。

それほど近い隣どうしであっても、両国の状態はまさに昼と夜。過ぎ越しで語られる出エジプトの話を思わされる状況である。

出エジプト記によると、モーセはイスラエルの民をエジプトから解放するようにパロに申し出た。しかし、パロがかたくなになり、それを拒絶するたびにエジプトに災難がふりかかった。結局パロが降参し、イスラエル人を解放するまでに、10の災難がエジプトを襲ったという。

聖書によると、この時、どの災難も、イスラエル人が滞在していた町ゴシェンにだけは及ばなかった。特に、災難の一つ、完全な闇がエジプトを覆ったときも、ゴシェンにだけは、光があったと書かれている。

天からみれば、今、完全な闇の中にいるシリアのすぐ隣で、ホリデーを楽しむほどの平和があるイスラエルの状況もちょうど同様ではなかと思わされる。エルサレムの静けさのすぐ隣で、地獄が展開していると思うとなんとも言えない思いがする。

かつて、神は、そのようにして、イスラエルを区別する事で一つの国となし、彼らを約束の地に導き上らせることで、その存在を、イスラエルとエジプト、そして地上の全人類に明らかにされたということである。

つまり、これは、イスラエルだけをひいきにすることが目的ではなく、イスラエルを用いて、天地創造の主であるご自分を明らかにすることが目的だったということである。

また、神は、出エジプトにおいて、エジプトが滅びる事を望んでいたわけでもなかった。

旧約聖書の研究で知られるラビ・フォールマンは、モーセに率いられて出て来たイスラエル人が約束の地に来た経路と、ヨセフが、その父ヤコブを葬るためにカナンの地にエジプトの壮大な葬列を率いてやってきた時のルートが基本的に同じであると指摘する。

出エジプトの時も、ヨセフの時と同様に、エジプトもこの神の存在を認め、イスラエルの民とともに約束の地に来るという選択肢もあったというのである。残念なことにそうはならなかったというのが聖書の記しているところである。

しかし聖書は、やがて終わりの時がくると、地上のすべての民がこの天地の創造主である主を神とあおぐ時がくると預言する。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、わたしたちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(イザヤ書2:2-3)

ここに至るまでには、イスラエルを含む私たち全人類がまさに神を拒否し続けた罪を認め、その神ご自身による赦しを受け取るへりくだりが必要になる。私たち人類は強情だから、それはまさに終わりの時になるのだろう。

今はまだインポッシブルでしかないが、立った今、地獄の中で究極の苦しみにあるシリアの人々や、どうしても暴力をやめられないISISやアルカイダ、アサド大統領の上に、主なる神のあわれみと介入があり、戦争が終わる事を、ただただ祈るのみである。

石堂ゆみ

ジャーナリスト、元イスラエル政府公認記者、イスラエル政府公認ガイド、日本人初のヤド・ヴァシェム公式日本語ガイドとして活動しています。イスラエルと関わって30年。イスラエルのニュースを追いかけて20年。学校・企業・教会などで講演活動もしています。

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